院長:村田幸一朗 (院長のブログはこちら

■出身大学
日本大学松戸歯学部卒業

■趣味
野球と食べること
(今は二人の娘に夢中!)

院長よりメッセージ

私は、この松阪市という地方都市でも最先端の、良質な治療を提供したい。そして予防を通じて多くの方の人生を守りたいという想いから歯科医院を開設しました。

虫歯治療は、削って詰めれば終わります。しかし、ただ簡単に修復すればいいということではありません。

目先の簡単な治療だけでは本当の健康は守れないのです。歯周病治療や、咬み合わせの知識、歯を補うための入れ歯・インプラントなど幅広い分野に精通していなくては、長期に渡って歯を守ることは難しくなります。

たった1本の虫歯をきっかけにして、お口全体が崩壊してしまうことさえあるのです。当院では、1本の虫歯を全力で治すことはもちろんとして、一生涯歯に困らない治療を目指しています。

そして、ベストな治療で悪い部位を治したら、予防を通じて歯を守るサポートを行いたいと考えています。歯を大切にされたい方は、どうぞお気軽にご相談下さい!

略歴

平成10年
日本大学松戸歯学部卒業
同年歯科医師免許取得
愛知学院大学歯学部付属病院
歯科補綴学第一講座入局
平成14年
トヨタ記念病院歯科口腔外科勤務
平成15年
林歯科医院勤務
平成15年愛知学院大学歯学部
非常勤助手
平成18年3月
もみの木歯科開院

所属学会等

所属学会
スタディグループなど
口腔インプラント学会
日本歯科医師会会員
日本糖尿病協会会員
臨床歯科を語る会会員
愛知学院大学有床義歯講座 非常勤助手
スタディグループ
はまゆう会
もくあみ会
しんせん組
校医 三重高校
東黒部小学校
わかすぎ第2保育園
研修会終了実績 ・JIADSインプラントコース
・臨床基本ゼミ
・内藤正裕先生・くれない塾
・愛知インプラントセンター100時間コース

院長のブログ

さらに詳しい院長のプロフィールをご紹介します!

3人のお子様がいる患者さんから、息子さんの進路の参考にしたかったのか

『なぜ先生は歯医者になったの?』と聞かれました。

歯科医を目指して(大学に入学してから)もうすぐ20年になるため逆に今となっては、歯科医以外の職業は考えられませんが、当時は歯科医になりたいという強い思いは無かったと思います。ですのでちょっと考えてしまいました。

強いて言えば教員で地元をこよなく愛している父の影響で、僕も三重県で働ける地元でもできる仕事につきたいと思っていたことと、親戚に歯科技工士さんがいて見慣れない模型に当時から興味深々であったこと、小学生の頃、屋上で遊べた地元JA(農協)にあった歯科医院の先生が、優しく、いつも遊びに行って(というより待合室にあった飲料水を勝手に飲みに行っていた困ったな子どもでした)自分の中では歯科医院のイメージをすんなり持つことができたことだと思います。

どのような歯科医になりたいか、どのような医院にしたいか。

今思うと当時の近所の歯医者さんが今のもみのき歯科のコンセプトになっているんだと思います。

『父との思い出』

父は小学校の教諭でしたが、父の教え子の方にお会いすると、
「ほんと、いい先生だったよ、怖い先生やったけど。」
と言ってくれます。

皆、当時は厳しい怖い先生というイメージがあったみたいで、当然僕も子どもの頃はよく叱られたものでした。
しかしそのときの状況や何故そんなことをしたのか、理由をきちんと聞かれ、毎回面と向かってコミュニケーションを取ってくれていたと思います(もちろん殴られた後でしたが。。)

そんな父のおかげで、何げなく、なんとなくはなくも物事にはちゃんと理由があるのだということ、また同じ過ちは繰り返さないことを考えるようになったと思います。

『小学生時代』

生まれ育ったところは大内山村(現大紀町)。自然豊かなところで、今のあか抜けない、おっとりとした性格はこの頃からほぼ変わってないと思います。

当時スポーツ少年団の剣道が小学校の体育館で行われていたのですが、隣に家があったということもあり、灯りがつくとよく遊びに行っていました。

上級生がかっこよく、すぐに自分もやりたいと思うようになりましたが、小学校2年生にならないと入部できない決まりがありただ講堂の端のほうで遊んでいました。

毎回毎回いっていたため、先生に「小学校に入ったら、特別に入団していいよ」言われすごく喜んで家に帰った思い出があります。

しかし始めは、父に「そんな誘われたからって軽い気持ちじゃ迷惑をかけるだけだからだめだ」と反対されました。しかしどうしてもやりたくて『6年間続ける』という約束で許してもらいました。

しばらくは防具なしで基礎練習をやっているだけでしたが「早くあのかっこいい防具をつけてやりたい」といつも思っていました。

一年経ったくらいでしたか、初めて防具をつけて練習したときはほんとにうれしかったです。

しかし、現実ははそんなに甘くはなく、夏は防具が暑いし冬は胴着が寒いし、なにより痛いしで、あんなに楽しみにしていた講堂の明かりが憂鬱なときも多々ありました。

しかし厳しい練習も続けられたのはそのときは入部時の父との約束を思い出すことでがんばれたのだと思います。

しばらくして試合で勝てるようになるにつれ、練習も楽しくなるようになりました。剣道は個人競技のように思いますが、団体戦は個人の力以上のものがだ出せるので特に好きでした。

5年生の頃まで団体戦でいつも3位どまりで、またそんなものなのかな、という雰囲気がありすでに気持ちで負けていたところがありました。

ある試合にOBの若い先生がこられ「お前らは、実力はあるのに。。元気がないんだ」と言ってきました。結局いつもの精神論『気合が足りない』てことだと思って皆うつむいていたところ、

「そうじゃない試合全体をもりあげるんだ、今でてる選手をもっともっと楽しまるつもりで、励ませ自分が一番なんだとおもえるくらいまわりが盛り上げろ、」とおっしゃりました。

当時試合をしている選手は声をだしますが、他のものは見守っているだけというところがありました。「周りがもっと声をだせ、選手を盛り上げろ!!」という先生につられるように、自分たちの試合だけは出ている選手以上にうるさいほど盛り上がっていました。

するとウソのようになぜか皆体が動き優勝候補相手に5連勝で勝ちその勢いで初優勝を成し遂げました。初めて手にした栄光は仲間となしとげた(お互いを持ち上げただけでしたが)思い出深いものでした。

それから常に優勝候補でしたが逆にどうしても勝てない相手もいました、最後の大会も大将だった僕が1本でも取れば(2本先取で勝ち)団体では勝てるという大事な試合でその相手に負けてしまい、また代表戦にも出ささせてもらったのですか、そこでも同じ相手に負け、いままでがんばってきた仲間に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

『中学時代』

中学には剣道部はなく野球部に入部しました。

それまでは野球は投げて打つというな単純なものという感じでしたが、雨の日はミーティングに費すことも多く体を動かすのと同じぐらい頭を使うことを教えてもらったと思います。

守り抜く野球でいつも善戦はするものの、打てずに最後に競り負けてばかりでしたが、野球(スポーツ)の面白さを教えてもらったの時期で、下手なりに一生懸命やっていたと思います。(野球好きは間違いなくこのときからです!)

勉強も部活が終わってから始めたようなものでしたが何でもがむしゃらにできた時期でしたのでそんな勢いで?志望に何とか合格できたような気がします。

夏は河原でテントをでキャンプなど自然を満喫した少年時代でした。

『高校時代』

今考えると一番中途半端な時期だったと思います、何かに打ち込んだというものは無く3年間があっというまに過ぎてしまった気がします。2年生の終わり頃進路を決めないといけない時期にさしかかった頃「何かやって人から感謝される職業につけたら。。」と漠然と思っていただけでした。

目標は大きく、「それじゃあ医者になろう!!」と。
当時は歯医者も医者と同じだと考えてました(笑)
しかしどちらにしても現実はそんなに甘くは無く浪人することとなりました。

『浪人時代』

大阪で寮生活は厳しく時間単位で管理されるある意味、虐げられた一年でした。

その中で成績が伸びたのかどうかは、少し疑問ですがとりあえずは受験勉強だけした一年で、そして私立ですが歯学部と、国立大学は教育学部に合格することができました。

先述した通り、父は教員でしたので同じ道を進むことも考えたのですが、両親も僕の意見を尊重してくれて歯学部に行かせてもらえることになりました。(今でも感謝しています)

またそんな浪人生活で当時不平不満をいってすごした仲間はいまでも、仲良く年に一度大阪に集まり同窓会をしています(北海道から沖縄からも集まります)

『大学時代』

大学時代は部活(また野球部でした)とバイトの生活でした。
部活はそれまでは監督についていくというものでしたが、大学では自分たち学生中心でやっていました。

ですので、その年の幹部(4年生時)によってカラーがすこしずづ違っていて、今思うとチームを作っていくといういい経験をしていたんだなと思います。

僕らは同期が4人いたのですが1-2年のころはよく一緒にいて先輩の悪口?など言い合いながら楽しく過ごしていたのですが、3-4年の幹部になるとお互いの意見が合わず、ぶつかることが多くなり、顔も見たくない!!と思っていたこともありました(笑)

しかし大会に向けての勝ちたいと思う気持ちは同じでしたので試合では一丸となり、幹部のときの歯学体3位になれた夏の大会は本当に嬉しかったです。本当のチームワークとはいつも仲良く一緒にいることでできるのではなく、それぞれ自分たちがやらなければならないことをやりそれを認めることそして信頼でき初めてできるものと学びました。

『臨床実習』

大学5、6年の臨床実習は班では、歯科補綴科、口腔外科、保存科、矯正科、小児歯科。。などなど各科をまわる実習、テスト、また個人では患者さんについて治療補助、また各科のDrのとの予約をこなすという大変忙しい生活でした。

患者さんの治療内容に沿って一緒に各科を回らせてもらうのですが、もちろん補助だけで治療はできません。しかし実際患者さんとは担当Drより学生の僕たちのほうが、接する時間が長く、しばらくするとなかなか先生には言えないことや、お口の中だけではなく家庭のことなどいろんな悩みを打ちあけてくれるようになりました、それらについて相談にのったりコミュニケーションをとれたおかげで、先生との間に立って、一緒に患者さんの治療に携わることができ、大変でしたが、充実していたし、また大変勉強になりました。

何と言っても『ありがとう!』と最後に笑顔でいってもらえたことが活力となり嬉しいことでした。いまでもこのひと言をもらうためにがんばっている気がします。


(患者さんの痛みを知るため先輩に頼み、
親知らずを抜いてもらいました。痛かったです)

『卒後研修』

名古屋にある愛知学院大学歯科補綴学第一講座にお世話になりました、

補綴学とは入れ歯を専門にしている講座でした、口腔外科に進むか迷ったのですが、当時お世話になった先生に『まず義歯や歯科治療をしっかりできるようになってから口腔外科勤務を、考えたら』とアドバイスをいただき、確かに開業医志望でしたので義歯など一般治療をできるようにならないと始まらないと考え、入局しました。

大学では昼は患者さんを診て、夜は入れ歯を作るという毎日でした。(技工士さんと同じようなことをしていました)

自分が治療した患者さんの歯を模型にして技工作業も一通りは自分でできるようになりました。
大学病院でしたので基礎からしっかりできたことがよかったと思います。

その中で興味を持ったのは、顎顔面補綴という分野で、悪性腫瘍などでやむなく顎や頬骨などを切除された部位に顎義歯、エピテーゼ(人工皮膚)などをつくるものでした

治療には一次治療(予防)、二次治療(早期発見、早期治療)、三次治療(リハビリゼーション)にわけられるとすると、補綴治療は欠損部の機能回復(リハビリテーション)に当たり、その中でも顎義歯は、自分たちしかできない特殊な治療としてはまっていきました。

入れ歯をつくる材料でつくれるためという理由でしたが初めて作った顎補綴は、眼球でした。歯科病院でまさか義眼を作成するとは思わなかったですが、いい経験をさせてもらいました。

今となってはそんな分野に全く関与しておらず、逆に普通の義歯の難しさに改めて直面しています。

しかしそんな4年間大学病院にお世話になっていたことで、顎義歯専門医として、週一回トヨタ記念病院に行く機会に恵まれ、また口腔外科に興味があるということをそこで話していたら、翌年の口腔外科の研修枠が一つ空いたから、村田先生どう?とお声がかかり、丁度30歳になる年だったのですが、最後のチャンスだと思い一年間の研修をさせていただくことにしました。

『総合病院にて』

しかしこれがすごく大変で、先ず、採血や点滴の打ち方、入院患者への対応など、看護師さんが当たり前にできて知っていることができない、夜中呼ばれても、上の先生に確認しないとなにもできない、ということがしばしばで、今思うと精神面、体調面、ともに追い込まれていたのか、30歳にして水痘いわいる『水疱瘡』にかかりダウンしたほどでした。

しかしこれでは一年が無駄になると思い、新人の看護師が読む本などから、本当に一から勉強し直しました。

よく会社の歯車にはなりたくない!と聞くことがありますが、歯車にもなれないというくやしい体験を味わいました。。。

研修期間はあっという間に過ぎて行きましたが、周囲の方々の多大なるご指導に鍛えられ、実り多い一年になった思っています。

『開業医勤務』

口腔外科研修が終わったあと嬉野の林歯科にて約2年半お世話になりました。林先生は本当に勉強熱心で仕事に対する姿勢について教えていただきました。

特に心に残ったのは「開業医の治療はかけ算で、一つでもできないと0になることがある」という言葉でした。たゆまず最新の診療や学術に取り組まれている勤勉な先生です。

また予防治療の概念をを教えていただいたのも勤務医のときで、もみの木が目指している『予防中心で患者様とコミュニケーションがとれる医院』の礎となっています。

『ホームドクターとして』

これらの経験を積んでH18年に松阪市郷津町に開院しました。

患者さんとしっかりコミュニケーションが取れる、笑顔の絶えない医院を目指しています。包括治療を念頭に置きながら、総合病院や近隣の医院と連携も大切にし、もみの木歯科が地域のホームドクターとして、この松阪第四地区にしっかり根を下ろしてゆけるよう、スタッフ一同日々研鑽を積んでゆきたいと思っております。

何でもご相談下さい